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llusion Acts Like Magic

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X-T1 + XF16-55mmF2.8 R LM WR


もはや、講義

確かに、こうして話をしてもしかたがない。我々は、ただひたすら、自分たちの精神安定のために、自分たちを納得させてくれる都合の良い理屈を構築しているに過ぎません。殺人犯の動機なんて、事件に関係のない者のために用意された幻想です。それだけの意味しかない。起こってしまった事実とは、なんら関係のないものです。これもまた、イリュージョンでしょう。

森博嗣 『幻惑の死と使途 』 -Kindle版 位置No. 5843



1つ前の5作目『再度封印』はだいぶん前に読了しているが、特に何も感じることがなかったので割愛。さて、S&Mシリーズ6作目の『幻惑の死と使途 』は次の『夏のレプリカ』と対を成している作品で、同時期に起きた2つの出来事を描いている。そのため、『幻惑の〜』は奇数章しかなく、『夏の〜』は偶数章のみという奇抜な章立てになっている。『幻惑の死と使途 』は脱出マジックを得意とする老年のベテランマジシャンの死にまつわる話である。

犀川先生の犯人や動機に対する見解は、第1作目から一貫して引用箇所の通りである。しかし一方で、この人は自分の多重人格性を自覚しており、最中核には荒ぶる衝動的な人格があることも承知している(普段はそれを幾重の防御壁で固めて、表層に出ないようにしている)。どうやらこの衝動的な人格が謎を解くスイッチになっているようで、突然この人格が浮上した後に閃くという展開を何度か読んでいる。つまり、根本はアツい人なのである。だから上記引用のようなことを言っておきながら、意外と熱心に動機や犯人の背景について語るのである。しかも本作では、萌絵嬢が披露した推理の後で、わざわざ「うん、ただの解釈の問題なんだ。君が間違っているわけではない。これは、正しいとか間違っているという評価ではないんだ」と前置きまでして語っている。"都合の良い理屈を構築する"のが、実はお好きなのだ。そして、「綺麗という形容詞は、たぶん、人間の生き方を形容するための言葉だ、服装とかじゃなくてね」とかいう詩的な感想すら口にしたりする。

なぜか?それは、結局のところ森氏がレクチャーをしたいからで、氏にとって最も理想的な生徒とのディスカッションを楽しみたいからではないかと思う。ひとつは、(元)大学教員はそもそもディスカッション好きであること、そしてもうひとつは、教えるという行為に長く携わっていると打てば"正確に"響く相手の存在を求めがちになること。森氏にとって、その存在が西之園萌絵なのであろう。トリックのネタを楽しむのでも、殺人を犯ざるを得なかったドラマを味わうのでもなく、もはや最後に講義を聴くために最終章の前まで予習しているような気分である。キンドルで読んでいると他の人がお気に入りの文章としてハイライトした箇所が表示されるのだが、そのことごとくが(上掲の綺麗という形容詞に関する感想のような)いかにも含蓄があるかのような考察の文章ばかりというのも、私はちょっと恐怖を感じる。

友人によるとS&Mシリーズは確か最終巻を読むべし(しかもワープすることなく)ということだったはずなので、このまま読み続ける予定だが、この調子で行かれると、やや辛い。それはたぶん、私が風変わりな大学教員のレクチャーやら、先生と生徒の丁々発止を聴いてワクワクできるほど頭が柔軟ではなくなってきていることも原因なのだろうと思う。小説は人生のなかで何度も繰り返し読めるものだが、「最初に読んだのが何時か」ということは、意外と重要な要素なのかもしれない。
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SAKURA @ MIDTOWN 2016 #5

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X-Pro2 + XF16-55mmF2.8 R LM WR


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X-Pro2 + XF16-55mmF2.8 R LM WR


夢は、夜ひらく

陽が落ちてくるとライトアップが始まり、桜は一層ピンク色に染まります。東京ミッドタウンは東京タワーにも近いので、東京タワーと桜を一緒に収められる場所もあったり、夜桜を撮るのも愉しいスポットです。無論、ライトアップと同時に三脚を立てて撮影を始める本気撮りのフォトグラファーたちの姿も見えます。2本のレンズを返却した後だったので、私は手持ちのXF16-55で撮影。手振れ補正もないので、また橋の欄干にX-Pro2を押し付けてシャッターを押すという、相変わらずの素人振り。こういうときに使える望遠レンズやきちんとした三脚を持っていないのはどうなのだろう?と、最近はあまりに無計画なシステム構築に自分でさえ訝しむようになってきました。花火のシーズンまでにはそれなりの三脚を、そして来年の春は三脚立てて桜撮りと、いつかK-1で星撮りもしてみたいと、投資の割りには貧弱な機材しかないくせに夢とも妄想とも取れる思いは果てしなく広がるのでした。2016年の桜はそんな強欲も何喰わぬ表情でスルリと飲み込んで、時折吹く風にハラハラと花びらを散らしているのでした。

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SAKURA @ MIDTOWN 2016 #5

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X-Pro2 + XF90mmF2 R LM WR


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X-Pro2 + XF10-24mmF4 R OIS


惜しいを今更実感する

レンタルしたレンズはどちらも大変気に入り、一瞬でも帰りにアキバで買ってしまおうかと思ったほどでした。XF10-24mmはXF16-55よりはるかに軽くて取り回しがよく、手ブレ補正が付いているだけに、確かに非WRと絞り値の印字無しの仕様は実に惜しい(XFレンズに慣れると、絞り値が一見して分からないのは結構な違和感。慣れというのは凄いですね)。しかし、リプレイスの可能性は大きいと感じました。

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SAKURA @ MIDTOWN 2016 # interlude

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X-Pro2 + XF90mmF2 R LM WR

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SAKURA @ MIDTOWN 2016 #4

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X-Pro2 + XF90mmF2 R LM WR


バス撮りというジャンルは存在するのだろうかと、ふと思う


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SAKURA @ MIDTOWN 2016 #3

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X-Pro2 + XF90mmF2 R LM WR


サマになる、ということ

「遊び」といえば「管弦の遊び」、「花」といえば「桜」というのは誰もが古典の授業で習ったと思いますが、世界中で日本の花見シーズンが知られるようになっても、桜の下での宴会がこれほど絵になる民族は日本人だけではないでしょうか。愛国心とかいうことではなく、長年連綿と続けてきた習慣(=文化)の強さです。「絵になる/様になる」という評価は、見た目の善し悪しなど無関係で、ほとんど"慣れ切っているか否か"によって左右されるのだと思います。ただ、"切っている"状態まで辿り着くのは、相当な根気が必要だとも思いますが。

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SAKURA @ MIDTOWN 2016 #2

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X-Pro2 + XF10-24mmF4 R OIS


極私的花見場所考察

ここ数年は上野恩賜公園に花見に行くことが多かったのですが、私はそもそも人が多いところは苦手、というよりイラチになりやすい傾向があり、大自然より大都会を好む性質です。上野の桜は確かに圧巻で美しいのですが、尋常ではない混雑と想像を絶する統制の無さに花見の気分どころではなくなってしまうのです。それに比べれば、東京ミッドタウンの何と静かで穏やかなことよ。私はこのぐらいの桜と花見客の規模で充分です。DEAN&DELUCAで飲み物を買って、しばし花を愛でました。

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SAKURA @ MIDTOWN 2016 #1

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X-Pro2 + XF10-24mmF4 R OIS


東京ミッドタウンで花見

今年は東京ミッドタウンに花見に行ってきました。

桜の季節を歌った曲は数有れど、私はこの曲かなと思います。
もう12年前のデビュー曲(というのが信じ難い)ですが、いつまでも色褪せない名曲。
関東では散り始めていますが、まさにそんな時期に聴きたくなります。

今週は桜写真を消化すべく、珍しく連日記事をアップしていきます。もはや周回遅れとなっていますが、よろしければお立ち寄りください。

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JACK THE POETICAL PRIVATE

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動機の論理付け

しかし、発散しそうになる数式を押さえ込むという意志には、確かに、「黙らせる」という動詞に類似した印象がある。少しでも気を抜くと、どこかを見落として、醜い無秩序な暴走を許すことになるからだ。

森博嗣 『詩的私的ジャック』 -Kindle版 位置No. 4652


これまでの3作では事件のトリックを緻密な論理で作り上げ、動機はオマケ程度の扱いであったが、本作はまるで真逆であった。その動機も引っ張りに引っ張って最後にあの独白かと怒りを覚えなくもなかったが、動機以外はすべてやっつけ仕事で創作したのではないかとさえ思う("衣装交換ごっこ"を持ち出された日には天を仰ぎたくなった)。物語は特に起伏もなく単調に進み、それを補填するかのように犀川先生と萌絵嬢の恋バナをチョイチョイ積極的に差し込んでくるようになったので厄介である。

さて、その動機を端的に表しているのが上記の引用部分だと思う。「暴走」を許せるように(あるいは見て見ぬ振りができるように)なると、社会的には大人と認識されるのかもしれない。世界は秩序立っていてシンプルな原則で捉えることができる美しいものであると信じてみたり、自分の中にある、あるいは(自分とは無関係に押し付けられた)環境の中にある醜い無秩序をどうしても許せない気持ちは、若かりし頃なら誰にでもあったはずだ。1つ躓いてもそこから再出発できるという思考がなく、それならばいっそすべて無かったことにしてしまおうとするAll or Nothingの意志が。無論、そんな0か100しかない狭い選択肢で生きていれば実社会で損をするのは自分だということに気付いて、50に近づけていく手段を身につけていくわけだが、それがなかなか上手く出来ない人たちもいる。森氏の着想の鋭さは、この"なかなか上手く出来ない人"を犯人に据えながらも、ただの成長しないイタい大人のように扱わず、きちんと何故そういう動機を持つに至ったのかについて論理を用意していることだ(同時に、萌絵には捏造や偽善だと断罪させているが)。私の読み方では、S&Mシリーズ第4作目は動機がメインテーマであり、その動機に対し論理を用意している。怨恨や人間関係といった"当事者たちの事情"だけを持ち出すのではなく、動機を論理付けしようとする推理小説なんて他にあっただろうか?

論理を作るということは、理解しようと思えば出来る道筋が用意されているということだ。だから、犀川先生と同じように「確かに、一部には、その意志がある。それはおそらく、自分の中心を構成する人格だ」と感じる人だっているはずだし、斯く言う私もいまだに「強くなろうとする精神は、実に汚れている」と考えてしまう節があるような気がする。こればかりは、年齢や社会経験を重ねればどうにかなるというものではないのかもしれない。

ここまで書くと読み始めた時点で誰が犯人か目星がついてしまうと思うが、もうひとつ大きなオチが用意されているから、致命的なネタバレにはならないだろう。ちなみに、そのもうひとつのオチは、どうしようもなく陳腐である。

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MATHEMATICAL GOODBYE

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X-T1 + XF16-55mmF2.8 R LM WR


異色のテーマ

定義は、自らして意味のあるものとなるのだ。内も外も、上も下も、すべてを、自ら定義することだ。定義できるものが、すなわち存在するものである。

森博嗣 『笑わない数学者』 - Kindle版 位置No.820


本作の最後の一文を読んだとき、私は結構久し振りに読書で卒倒しそうになった。小説や映画にはラストシーンのためだけに読む/観るような作品があるが、本作もそうであった。三ツ星館という奇妙な館の前に立つ巨大なオリオン像が消えたり戻ったりするマジック、この館で起きる密室殺人など、犀川先生と天王寺博士の最後の会話から続くラストシーンのための長い長い背景にすぎなかったとさえ思う。密室殺人や2時間サスペンス的な人間関係と殺人動機は相変わらずだが、S&Mシリーズ第3作目の肝は「自ら定義する」ということだ。こんなテーマを据えた推理小説など、少なくとも私は前代未聞だ。

右の定義は上下の場合に比べて難しいというのは三浦しをん氏の小説『舟を編む』でも使われていたエピソードだが、自分で定義するという行為は存外難しい。辞書編纂者でなくても、私たちは日常生活で何気なく定義しているが(話が長い、小難しいと言われる人 - 私も当てはまるが - は、無意識になるべく正確に定義しようと思いながら話すからだ)、森氏はこれを自発的に行うべきなのだと説く。目の前に見えているだけでは存在していることにはならず、自ら定義を与えてやることで初めて対象は存在し得るのだと。これを突き詰めていくと、犀川先生のように目の前の老人に対して執拗に定義せざるを得なくなる。目の前に確かに存在しているのに、定義ができないから存在を確定できなくなるからだ。それを「解は、今や不定」だと切り捨てながら、その後に犀川先生に「いや、そう定義した。定義したかったのだ。」と結論づけさせるところが、他の小説家とは違う森氏の少々ひねくれた深い愛情を感じる。

そういうわけで個人的には、最終章で犀川先生が大学に戻り、弓道場まで散歩し、萌絵の出した問題を解くまでのシーンの雰囲気が何とも言えず好きだった。森氏は、情緒あるエピローグを書く天才だと思う(第1作目も、一番好きなのは犀川先生と四季博士が図書館で会うくだりだ)。

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