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OBLIVION(原題:オブリビオン)



トム・クルーズ最新作SF、『オブリビオン』を観てきました。
公式HPは → → → コチラ


SF映画の限界

SF映画であること、主演がトム・クルーズであること、この2点で、すでに限界点は見えているではないかと仰る方もいるだろう。あるいは、わずかな情報で話の大筋を言い当ててしまえる方もおられるかもしれないが、それは別に不思議に値しない。トム・クルーズが主演する作品も、大抵のSF作品も、ヴァリエーションは数種類ぐらいしかないからだ。本作の大筋を書いておくのは意味がないことなので(ご覧になればいろいろな意味で納得していただけるはずだ)、その代わりにタイトルであるoblivionの意味を書いておくことにする。英英辞典(Longman)の語義によると:(1) あるものが完全に忘れ去られている、または、もはや重要ではないこと (2) 無意識の状態、あるいは何が起こっているのか把握できていない状態。実は、これが最大のネタバレであるのだが、製作者たちがこういうタイトルを付けたのだから仕方がない。それより、こんな難解な英単語のタイトルをそのまま邦題に流用する方がどうかと思う。カタカナにすればよいという問題ではなかろう。

しかし、私が本作を観て感じた「限界」とはそういうことではなくて(もちろん、"トム・クルーズ的映画"であることは間違いない)たとえばスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(もはや12年前の未来という衝撃)、スピルバーグ監督の『未知との遭遇』、リドリー・スコット監督の『ブレードランナー』辺りまでは、SF映画には「まだ見ぬ近未来の世界を見せる」という何より強力な武器があった。私たちは未来の世界がどうなるのか勝手に空想する余地があったのだ。

それが『マトリックス』で映像技術の革新におけるひとつの頂点がを見せられたおかげで、私たちは斬新な映像というものにすっかり目が慣れてしまった。そして、手許の小さなスマホで情報の送受信を行い、画面をスワイプする行為が目新しくもなくなった私たちには、未来的すぎて想像を超えている世界やガジェットは、ほとんどネタ切れになってきたのかもしれない。SF映画を観ながら私たちは、俳優たちが何も無いブルーバックを背景に演じていて、ほとんどのものがPC上で作られていることを知っている。そのくせ、21世紀になっても相変わらず「近未来的なもの=スタイリッシュ=白を基調とした清潔でミニマムなデザイン」という発想から抜け出せないことへの限界も感じている。現実が進歩すればするほど、SF世界における想像の余地は狭められていくのだ。

人間の頭で考え出せる未来像に限界が来ているから、最近のSF映画は妙な設定とか、妙なドンデン返しとか、妙なヒューマニティを入れて繫がなくてはない。まるで、牛肉100%では成形が難しいから卵やパン粉を入れて繫ぐように。でも、私に言わせれば、SF映画は人情や物語性に頼ったら負けだ(そして、なぜだかよく分からないがSF映画を作る人たちが考える人情や物語は薄っぺらいものが多い)。最先端のSF映画は「そういうものは一応用意しているけれど、ただ形式上あるだけだから」と言わんばかりでいてほしいが、それが難しくなっている時代であることもよく理解できる。私が思うに、もうカルチャーショックと云わんばかりの衝撃を与えるSF映画は今後出て来ないのではないだろうか。

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