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Silence(邦題:『沈黙 -サイレンス -』)



遠藤周作の小説を映像化した、『沈黙 -サイレンス-』を観てきました。
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腑に落ちたとしか言えないが

私は遠藤周作氏のファンで、特にキリスト教がテーマの小説を好んで読んできた。そのきっかけを与えてくれたのが本作の原作である『沈黙』という小説で、おそらく氏の作品のなかで最も有名と言ってよいだろうと思う。キリスト教禁制の時代、自分の師匠が棄教したという噂を聞いた若き司祭が、真実を確かめることそして信仰の根を絶やさないために、日本に向かう。当初は隠れキリスタンたちの歓迎と親切に期待以上の好感触を得るが、次第に弾圧の現実を目の当たりにし、遂には自身も捕らえられてしまう。逃亡の最中、そして捕らえられ棄教を迫られるようになってから、司祭は心の中に生じたひとつの小さな疑問を消せずにいた - なぜ主は、貴方のためにこれほど苦しむ人々に対し、そして私にも、手を差し伸べようとしてくれないのか。小説のタイトルは、つまり過酷な現実に対し救いの手を差し伸べない神の沈黙のことである。

原作を読んだことがあるならご存知と思うが、この小説には一切の救いがない。若き司祭が"転ぶ"シーンが宗教的観点では救いとなっているが、それは信仰を棄てたという事実と向き合い生きていく苦痛の始まりでもある。しかし、若き司祭が経験する出口の見えない苦痛だけの日々を私たちも追体験していなければ

その時彼は踏み絵に血と埃でよごれた足をおろした。五本の指足は愛するものの顔の真上を覆った。この烈しい喜びと感情とをキチジローに説明することはできなかった。
(新潮文庫版、p.240)


と表現される烈しい喜びと感情、「同伴者としてのイエス」に共感することはできなかっただろう。私は「救いのなさ」を描かせたら未だに遠藤周作氏の右に出る者はいないと思っているが、ただただ重苦しいだけで終わっていく他作品(たとえば、芥川賞をとった『白い人・黄色い人』。どちらも短いが読み通すのが相当に苦痛である)と違い、『沈黙』では無慈悲で救いのない日々のプロセスが必要であった。それは、「たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた(新潮文庫版、p.241)」という司祭の言葉に集約されている。このため、遠藤周作は隠れキリスタンと司祭たちの置かれた状況を克明かつ淡々と描き続けている。もういい、たくさんだと読み手に音を上げさせるほどに。

マーティン・スコセッシ監督は、この必要なプロセスを遠藤氏と同じぐらい冷徹かつ淡々と映像にしてみせた。2時間40分余りと昨今の映画としては相当な長尺で、最初から最後まで汚らしく、惨めで、苦痛に満ちた世界だった。遠藤作品のファンでなければ、金を払ってまで観ることをお勧めできるだろうかと、ファンである私ですら思う。その一方で、残酷極まりないキリスト教弾圧を感情的に描かれたり、転びの場面を妙に神々しく描かれたりしたら堪らないとも思っていたが、スコセッシ御大を前にして杞憂であった。無論、小説と異なるところはあるし、小説との相違について一家言ある方もいると思う。ど田舎の貧民が日本語と英語をちゃんぽんで話せるわけがないと、根本的な都合のよさを感じる部分もある。しかし、私は観ている最中も、観終わった後も、ものすごく腑に落ちた。個人的には、原作を忠実に映像化した映画と賞賛してもよいのではないかと思っている。

余談だが、封切り日の初回(封切り日なのに午後スタート、小さい劇場で1日に3回しか上映がないという時点で本作の扱いが知れる)に観に行き座席は9割ほど埋まっていたが、案の定、おそらく私が最も若輩であった。見渡す限り、中高年しかいなかった。恋愛少女漫画や人気アニメの映画化を否定する気は全くないが、日本を代表する文学作品を外国人監督が悲願の映像化をし(スコセッシ監督の念願の企画だったと言われている)、それを観るのはおじさんやおばさんばかりという構図は、何となく寂しい。

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